夢とか希望の類の言葉に嘘を感じるのです

一日の仕事を終え、週に2回通う事を自分と約束しているジムに行く。今日のオーディオブックはどれにしようかと迷い、それから半時間ほどトレーニングする。ちょっと前までは筋肉をつけるためだったけれど、ささっと運動してささっと帰るようになった。

食事はいつもより多め。帰り道にあるキリン堂によって安い焼きそばの麺とインスタントカップ麺、それから焼きそばに入れるサラダチキンを買う。

帰るとすぐにシャワーを浴びた。身体が冷えると動くのがしんどい。寒くなるととても眠たい。

言葉の色彩感覚に従う

語る言葉の色のなさを感じる時がある。色というのは、えっちな言葉の意ではない。その人の人生であるとか、何を考えて行動したとか。しんどかったこととか。文字に色はないけれども、何かを感じることがある。

じゃあ色のない言葉はなんなのかというと自分の中で答え複数ある。

信じる人は本当に救われるのか

一つ目は他人の人生を語った言葉であるとき。「偉いお坊さんがこう言っているんだから間違いない」、「大金持ちの社長も〇〇と言っている。」

信じることはは悪くない。いややっぱりなんか気に食わない。気持ち悪い。何か信じている人っていうのは自分の判断基準がない。他の人の言葉を借りて僕に訴えかけてくる。かといって僕も人の言葉を拝借することはあるのだが。

信じるというのは誰かの影にかくれているような言葉だ。ことを大きくして言うと信仰している。という意味になる。きっと誰かに指示されて生きてきたんだろう、と推察する。誰かに指示されて行動してきた結果、自分の力では見えない道を進むことができないのだ。

これに該当する人間の特徴もある。アドバイス乞食に感想乞食。自分の出番が終われば、どうでしたか?とと求められてもいないの寄っていく。ハイエナのごとく。彼らが求めているのは自分を肯定する言葉で、その言葉があるから明日も生きられるのだ。自分を戒めて書こう、大学生の時の俺だわな。

文章にも芸術があることにきづく

二つ目は本を読んでいない人間の言葉。苦労はしたかもしれない。努力はしたかもしれない。血のにじむ努力とかもしたのかもしれない。多分、知らんけど。

だけど、人間の人生なんてしょせん80年前後ぽっちだ。そんな中で自分の経験だけで語れるものって少ないんじゃないかな。本を読んでいろんな人の人生を凝縮した先に強い個性が生まれると思っている。いろんな個性がには、幅広さだけではなくて浅さ・深さもあるのだと僕は言いたい。

本を読め読め、と当たり前かもしれない言葉を語るのは多様な人生を追体験できるから。それだけで生まれてから80年経つまでの間の年を超えたものを手にすることが出来るのだ。歴史が身にしみ込む。人の人生が頭に入る。思考の年数が伸びる。

ビジネス書のような技術が書かれてる本もいいけれど、このブログでは小説を薦めておこう。小説は言葉の芸術だ。面白さは話の内容だけではなくて言葉の組み合わせとか、リズムからも実は生まれている。そこで言葉の色というのが見えてくる。

12色しかないクレヨンが24色になり、128色になる。色の微妙さは誰でも感じ取れるけれども知覚できるのはやはり、色の多さを知っている人だけというのが今の答えだ。

普通や常識の起源について考える

人がいるから集団が生まれ、集団を統一するためにルールが存在する。三つ目は常識はどこから生まれてきたのかを考えない人の言葉。

「当たり前を疑え。」だなんて世の実力者たちは言うけれども、世の中の『当たり前』には理由があって成り立っている。

枠組みが見えていない人間の『当たり前』と、どういう世界か焦点のぼやけていない人間の『当たり前』が違うことは明白だろう。

大海を知らない井戸の中の蛙のように、ウォール・マリアの外の世界がわかっていないまま壁の中で幸せに暮らすことのように、『当たり前』を誰が作ったかを知らないまま生活するのは僕はあまり好きではない。

夢や希望は現実との焦点が合ってない人の言葉

青臭いことに夢や希望について疑いの目を向けてしまうのはしょうもない人間のする所業であることは理解している。だけどそれでも疑わずにはいられないのだ。スピリチュアルなんだ。僕にとって。

夢ってなんだといつも考える。

達成したいことなんてたかが知れてるんだけれども、興味のあることは山ほどある。でもそれらを夢と呼んでいいのかと悩む。本音のところオペラ歌手にはなりたいが、それよりもオペラ歌手になってオペラ歌手の人の思考が知りたい。なのだ。

もしかしたら『夢をかなえること』自体は簡単なんじゃないかなと考えている。でも大事なのは研鑽し続けた先にある世界なんだわ。俺にとって。

いつだって心の底では『みじめな自分を変えたい』であふれている

何かを目指しているわけではない。有名になりたいわけでもない。みじめな能力のない自分を変えたいのだと最近気づく。

なんで周りにはこんなにかっこいい奴がいて自分はカッコよくないのだろう。だから行動するし、考えて習慣化する。才能とかじゃない。できない自分が悔しくて、俺自身が求めているのに結果が出せない自分に石を投げたくなる。

演奏が終わって自分を省みて良くない演奏をしていたら美味いビールは飲めないし、飲んだら飲んだでその劣等感を忘れてしまう。いつになったら美味しいビールが飲めるかわからんけれどもいつか飲みたいっていう欲ぐらいはある。

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